記事番号: 1-414
公開日 2014年08月15日
☆浦添城跡散策マップをつくりました!
このたび、文化課では浦添城跡散策マップを作成しました。PDFデータをダウンロードできますので、浦添城跡を散策する際は是非ご活用ください!
Urasoe Castle Site Map[PDF:1.55MB]
浦添城跡アクセスマップ
文化財ガイドマップ「ぶらり浦添 歴史のさんぽ道」
浦添市の文化財をめぐる3つのモデルコースが掲載されています。配布は、浦添グスク・ようどれ館や浦添市教育委員会文化課で行っています。なお閲覧及びダウンロードは、下部一覧からもできます。ご活用ください。
浦添市文化財ガイドブック ぶらり浦添 第6版(令和5年発行)[PDF:24.2MB]
Urasoe city Cultural Property Guidebook 「Historic Promenade in Urasoe」Published in 2016[PDF:11.5MB]
浦添城跡
13 世紀末に造られたグスクで、中山(沖縄本島中部)を勢力下におく支配者の拠点と考えられています。14 世紀後半~15 世紀前半には最盛期を向え周辺には、王陵、寺院、池、屋敷、集落などを備え、後の王都・首里の原型と考えられています。政権拠点が首里城に移った後の16 世紀には第二尚氏第3代尚真王(しょうしんおう)の長男・尚維衡(しょういこう)が住み、それ以降は彼の子孫が屋敷を構えていましたが、1609 年の薩摩侵入の際に焼け落ちてしまいました。1945 年(昭和20)の沖縄戦ではグスクのある丘陵は前田高地(米軍にはハクソーリッジ)と呼ばれ日本軍の主要陣地となったことから激戦地となりました。沖縄戦や戦後の採石で城壁は失われましたが、現在復元整備を実施中です。
【浦添グスク・ようどれ館】
国指定史跡「浦添城跡」のガイダンス施設です。浦添グスクと浦添ようどれの発掘調査での出土品や、戦前のパネルなどを展示しています。また浦添ようどれ西室(英祖王陵)内部を実物大で復元し、県指定文化財の「浦添ようどれ石厨子」のレプリカも展示しています。また、文化財のリーフレットの配布や浦添城跡内等のガイドの受付(有料)、御城印の販売も行っております。
開館時間:午前9時~午後5時 休館日:月曜日(祝日の場合は開館)・年末年始
入館料:大人(高校生以上)100円 子供(小中学生)50円
電話番号:098-874-9345
【浦添ようどれ】
別名「極楽陵」。13 世紀に造られた英祖王(在位1260~1299)の墓といわれ、1620年に第二尚氏第7代尚寧王(在位1589~1620)により改修されました。崖にある二つの横穴を石積みで塞いで墓室にしており、更に周囲を石積みで囲っています。墓室は向かって右の西室が英祖王陵といわれ、向かって左の東室に尚寧王とその一族が葬られています。墓室内には西室に3基、東室に1基、中国産の輝緑岩製石厨子が安置されています。「ようどれ」は「夕凪」を意味する古語で、その静かで穏やかなイメージから「墓」の意味に用いられたと考えられています。
【伊波普猷の墓】
伊波普猷(1876~1947)は古琉球の歌謡集『おもろさうし』の研究を始め、民俗学や言語学の研究を進め沖縄学の父と呼ばれた研究者です。論文「浦添考」とその後の東恩納寛惇による研究により、浦添グスクが首里以前の古都であったと述べています。墓の前には顕彰碑が建てられ、「彼ほど沖縄を愛した人はいない。彼ほど沖縄を識った人はいない。彼ほど沖縄を憂えた人はいない。」と刻まれています。
【ディーグガマ】
浦添グスク頂部の鍾乳洞が発達し陥没したドリーネが御嶽となったもので、『琉球国由来記』の「渡嘉敷嶽(神名:渡嘉敷オヒヤ御イベ)」がここに当たると考えられています。ウマチー (祭祀) などの年中行事の際に村拝みが行われる御嶽で、戦前はデイゴの木が生えており、それが名前の由来となりました。戦後はガマの内部にコンクリートブロックの囲いを造り、その中に戦没者の遺骨を納めました。現在、遺骨は糸満市摩文仁に移されています。
※現在落盤のおそれがあるためガマ内部に入れません。
【カガンウカー】
仲間集落の拝所の一つで、旧暦5月・6月のウマチー(祭祀)や12月の拝願解きなどの年中行事の際に仲間集落の人々によって村拝みが行われていた井泉です。戦後はここから湧き出た水で「宝船」という泡盛が造られていました。「宝船」はかつて浦添にあった地酒で、宝物をわんさと積んだ船の帆に「宝」の文字を描いた独自のラベルが貼られています。『琉球国由来記』には元旦の朝に国王へ献上する水を汲む吉方の井戸の一つに「カガミ川」が記されています。
【ワカリジー】
ワカリジーは浦添城跡の東端にある岩で、頂上の標高は148mと史跡内で最も高い場所となっています。『琉球由来記』(1713年作成の琉球王国の地誌)には浦添グスク内の御嶽について記述があり、その中の「小御嶽」はワカリジーにあたると考えられています。「為朝岩」とも呼ばれることもありますが、これは明治時代になって付けられた名前です。ワカリジーは、英祖王と女神職のウシキベーとの間に生まれたイソノシー(伊祖の子)を祀った場所とされ、主に前田集落から信仰され、那覇からも参拝者が訪れたといいます。沖縄戦時に米軍から「ニードルロック」と呼ばれ、日米両軍の間で激戦が繰り広げられました。
【カンパン壕】
浦添城跡の南側斜面に作られた日本軍の陣地壕です。カンパン壕は缶詰壕から100mほど西側にあり、内部はコの字状になっています。壕内には食料が保管され、カンパン(保存と携帯の為に固く焼しめたビスケットのようなもの)の入った箱が天井に届くほど高く積み上げられていました。沖縄戦にはカンパン壕に重症の負傷兵も収容されていましたが、薬品類は非常に乏しく米軍が前田高地を占領した際には水の確保が困難となり、手当てもままならない状況でした。負傷兵の中にはカンパン箱の上で寝起きをする者もいました。
※現在は落盤の恐れがあり、入ることはできません。
【缶詰壕】
浦添城跡の南側斜面に作られた日本軍の陣地壕で、内部は複雑な形状になっています。
日本軍用の食料を保管した壕で、「糧食壕」とも呼ばれています。缶詰壕には魚肉団子や鯖、パイン缶などの缶詰のほか、乾燥野菜や米、酒泡盛、味噌などの入った箱や袋が豊富にあり、これらを出入口に積み上げることで、弾除け、爆風除けにしていました。缶詰壕では大隊長や将兵、カンパン壕よりも比較的軽度の負傷兵が身を隠し、脱出の機会をうかがっていました。
※現在は落盤の恐れがあり、入ることはできません。
【浦添城前の碑】
この石碑は、1597年に尚寧王が首里から浦添グスクにいたる道を整備した際の竣工記念碑です。石碑の表は琉球かな文字、裏に漢文で尚寧王の命により石畳と石橋を整備したことが刻まれています。碑首には琉球国王を表す16世紀頃の象徴文様、中央に太陽、左右に鳳凰と瑞雲が描かれた「日輪双鳳雲文(にちりんそうほううんもん)」が彫られています。石碑の前の岩は、「馬ヌイ石」と呼ばれる馬に乗るための踏み台といわれています。石碑は沖縄戦で破壊され、1999(平成11)年に復元されました。残存していた台座の一部を再利用しています。
【浦添大公園南エントランス多目的室】
浦添グスクの南側入り口の施設は、浦添グスクを紹介するパネルや、グスクの模型などの展示コーナーを設けています。また、当時の浦添グスクや浦添ようどれをVRで体験できます。入館料は無料です。
・会館日時 午前9時~午後5時
・休館日 月曜日(祝日の場合は開館)・年末年始
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