記事番号: 1-10398
公開日 2016年03月28日
~ 沖縄を離れるとき、自分が裏切者になったように感じました ~
当間栄安さん
氏 名 : 当間 栄安 (疎開当時 13歳)
出 身 : 沢岻
所 属 : 浦添国民学校 第3班
疎開先 : 宮崎県岩脇村 (現日向市)平岩国民学校
私の疎開体験記
私は、浦添国民学校高等科の1年生、13歳のときに疎開をしました。
疎開に出発する前日、私は父から対馬丸が撃沈されたことを聞かされました。そのときは、まだ対馬丸が沈んだことは公にはなっていませんでしたが、父は浦添役場の職員だったため、情報が入っていたようでした。父は、乗船中は浮き輪を肌身離さず、海にいつでも逃げだせるよう甲板にいるようにと私に言いました。
その当時、私の家族は、両親、兄(18歳)、妹(10歳)、弟(4歳)、そして母のお腹の中の赤ちゃんを含めて7人でした。その中で、私は学童疎開、母と妹、弟は一般疎開をすることになりました。
浦添役場に勤めていた父は、一緒に疎開はせず沖縄に残りました。兄も戦争に参加するために沖縄に残り、その後海軍を志願して昭和20年1月に佐世保に派遣されました。佐世保への派遣は、今考えると幸運でした。兄は沖縄戦に巻き込まれることなく戦争を生き抜くことができたからです。しかし、沖縄に残っていた父の状況は異なりました。戦争が激しくなる中、父は父の兄たち3名で南部に逃げたそうです。南部に逃げる途中、米軍の砲弾の破片が後頭部に当たり、即死したそうです。沖縄戦が終わる間際の6月19日のことでした。疎開をしていた私は、沖縄がどのような状況だったのか知るよしもなく、父とは疎開してから一度も会うことなく別れてしまいました。私は、疎開していたから命拾いをしたのだと思います。
疎開当時、私は13歳だったので、浦添の仲西飛行場建設作業を手伝っていました。そのため、運天丸が那覇から出発するとき、私は沖縄から逃げているかのように感じて、臆病者、裏切者という、うしろめたい気持ちでした。船が浦添沖を通るとき、浦添の飛行場が見えました。昨日まで、その飛行場の建設作業をしていたのに、内地に逃げているような気持になりました。ようやく安心してうれしくなってきたのは、鹿児島に到着してからでした。
私は、第3班で平岩国民学校に疎開しました。他の学童疎開児童と比べて、私は食べ物に恵まれていたような気がします。それは、宮崎の子どもたちに勉強を教える代わりに、食べ物をもらうことができたからです。宿題の問題を教えるごとに、饅頭やおにぎり、栗、柿、ミカンなどをもらいました。それがとてもうれしかったのを覚えています。しかし、一貫して疎開児童たちの食料事情は悪く、私も栄養不足で体力が衰えていくのを感じていました。体育の授業では走る速度が以前のように早く走れず、すぐ疲れるようになりました。米俵も担ぐことができなくなっていました。校内の相撲大会では、疎開児童たちはみんな地元の子どもたちに負けていました。
疎開先での生活は、学校が終わると生活をするための作業でした。男の子は松林に行って、燃えそうな松葉などを集めたり、畑を耕したりしました。上級生の女の子は炊事のお手伝いです。そのほか、男子の上級生は買い出しなどの仕事もありました。私は上級生でも、ずっと畑作業をしていました。
疎開しているとき、印象に残っていることがあります。それは、子どもたちと平岩の父兄の方々が集まって学事奨励会をしたときのことです。奨励会では、優等賞などが発表され、ノートなどをもらいました。そして、班ごとに歌などを発表しました。私は、その当時流行していた「ラバウル小唄」を歌いました。多数の父兄たちの顔見ないように、斜め向かいの窓辺を見ながら歌い始めているうちに、沖縄に残る父や兄、祖母たちのことが思い出されてきて、ほろりと涙が出てきてしまいました。ちらりと父兄たちの顔を見ると、父兄たちも鼻をすすって泣いていました。翌日学校に行くと、先生に、「昨日は平岩の父兄たちをを泣かせたそうだな」と言われたことを覚えています。この学児奨励会のことは、今でも強く印象に残っています。
お正月になると、美々津の婦人会の方が、たくさんのミカンとお餅を差し入れしてくれました。食料が少ない中だったので、大変ありがたかったです。
疎開しているとき、母に会う機会がありました。初めて宮崎で母に会ったのは、疎開した年の秋でした。母は突然平岩に面会に来ました。そのときに、私は初めて母や妹、弟、親戚たちが宮崎の日之影に一般疎開していることを知りました。宮崎に母がいることを知り、とても心強く感じたのを覚えています。疎開期間中、母とは2回会うことができました。母は、散髪ができたので、疎開先で散髪をして食べ物と交換していたようです。
8月になり、日本の敗戦がこくなったころ、母から手紙が届きました。手紙の内容は、母の疎開先へ転校しないかというものでした。平岩に来てから約11か月余りが過ぎたころでした。私は学童疎開集団から離れ、母と暮らすことにしました。母のもとに移りましたが、私は学校には通わず、働くことにしました。私は、従兄弟たちと一緒にトンネル工事の作業員として働き始めました。そんな中、海軍を志願して佐世保に派遣されていた兄がひょっこり戻ってきました。兄の生還は、私たち家族に大きな喜びと心強さを感じさせました。
新しい生活を始めて約半年が過ぎ、1945年の3月になりました。私は、工業建築士養成学校に入学するため、一人宮崎市に行きました。これは、私の一人生活の第一歩となりました。当時は、復興のために建築関係の養成学校が開設されていました。平和そうな宮崎市にも米軍が駐留し通りをジープが往来していました。
学校に通い始めて半年後に、疎開者の帰還が始まりました。その列に漏れず、私たち家族も沖縄に帰ることになりました。1946年11月3日、私たちは沖縄を再び目にしました。激戦地だった浦添は廃墟と化していて、焼け野原が戦火の激しさを物語っていました。仲間・安波茶には、家を焼かれた人々のテントの群れがはられていました。そして、父は戦死していました。