私の疎開体験記(新城 啓重) 浦添国民学校 第1班

記事番号: 1-9410

公開日 2016年03月29日

~ 疎開生活は苦しかった。でも、富高は私の第二の故郷です ~

氏 名 : 新城 啓重 (疎開当時 10歳)
出 身 : 牧港
所 属 : 浦添国民学校 第1班
疎開先 : 宮崎県富高町(現日向市) 第一富高国民学校

疎開体験記

 富高は私の第二の故郷です。今まで10回近く行ったことがあります。
疎開をしたとき、富高では大変苦しい思いをしたけれど、それでも、私にとっては第二の故郷です。学童疎開をしたとき、私は小学3年生10歳でした。戦後70年を経た今は、80歳になります。

 私は、戦争はもう二度とあってはならないと思います。毎年6月23日に沖縄全土で追悼式があります。各市町村、学校、沖縄中が喪に服して戦争当時の苦しみ、悲惨さを思い起こします。戦争がなければ、私の父、兄たちは、現在でもいたかもしれません。戦争は悲惨な影を歴史に残します。

 私が学童疎開をしたときは、10歳の小学校3年生でした。先生に引率されて疎開しました。私は姉と弟の3人で疎開しました。姉は、その年に第一高等学校を卒業したばかりで、学童疎開の世話人として行くことになりました。弟は、小学校1年生でした。出発前は、見知らぬ土地で暮らすという不安もありましたが、大きな船に乗ることを楽しみにする気持ちもありました。

 1944年8月27日に那覇の本願寺に集合して、9月1日に運天丸に乗って那覇港を出発しました。疎開は、この船に乗れば、大丈夫じゃないかと思いました。でも、沖縄本島の見えない大海を渡っていくので怖い気持ちもありました。

 宮崎に出発する前、両親が私たちを座布団に座らせて、一緒に盃を交わしたことをよく覚えています。両親は、これが最後になるかもしれないということを感じていたのかもしれません。私は、疎開先で大きくなって第二の軍人になるようにと教えられていたので、寂しくても不安でも、男らしくしっかりしないと強い軍人になれないと思いました。

 疎開船は、日本の駆逐艦が守りながら本土に届けるという話でしたが、私たちの周りにいた駆逐艦は、那覇港を出て沖縄本島が見えなくなる前に離れてしまいました。船では、浮き袋を渡されていて、もし万が一敵の攻撃に合ったら、浮き袋を使いなさいとのことでした。浮き袋は、2時間はもつと言われていました。中身は木の削りかすで、触ると木の感触と匂いがしました。浮き袋がもつ2時間あれば、救助が来るので安全だと聞かされていました。

 那覇港を出発して、やっと鹿児島につきました。そこから汽車に乗って富高町に向かいました。お腹がとても空いていました。到着すると、富高の婦人会の皆さんが芋を炊いて、配ってくれました。あの美味しさ。今でもその味を忘れることができません。そこでは、布団も用意されていて、温かく眠ることができました。婦人会の皆さんに温かく迎えてもらったことに、小学校3年生ながらありがたいと感じました。先生が御礼の挨拶をしていたのを今でも覚えています。

 その年の宮崎は、記録的な寒さで雪も降っていました。雪が積もったので、皆で雪合戦をしました。雪を見て雪合戦をしたことが、疎開生活の中で一番楽しかった思い出です。姉は、沖縄から持ってきた砂糖を雪に混ぜて氷砂糖にして食べました。

 雪は、楽しい思い出でしたが、辛い思い出でもあります。手や足が寒さで霜焼けになり、お餅のように手足の甲が膨れ上がりました。赤く腫れて、あかぎれもできて、非常に痛かったです。宮崎で一番辛かったことは、この寒さでした。お風呂も毎日入れないので、体を温めることがあまりありませんでした。洋服も夏物しかない中で寒さをしのがなければならず、本当に辛かったです。

 寒さと同時にひもじさも宮崎でとても辛かったことの一つです。食べ盛りの子どもだったので、毎日お腹が空くのが辛かったです。その当時は、子どもでも誰もご飯をくださいなんて言えませんでした。少ないけれど、食べ物が出る食事の時間が唯一の楽しみでした。

 当時の食事は、ヨモギ、オオバコが入った雑炊でした。オオバコはとってもおいしかったです。戦後、家の周りに生えていたオオバコをとって炊いてみました。柔らかそうで美味しそうな部分を選びました。しかし、炊いたオオバコは美味しくなくて食べることができませんでした。当時はあんなに美味しいと感じていたのに、今では食べることすらできなくなっていました。当時の食事がいかに困窮していたのかが分かりました。

 疎開先での食事は、とても少なくて、いつも飢えていました。芋の皮などのきれっぱしが道に落ちていると、それを拾って食べました。土ぼこりの中に落ちていても、ラッキーだと言ってほこりを落として食べました。それぐらい食料に飢えていたのです。子どもたちは、皆、裸になると肋骨が見えるほどやせ細っていました。

 私たちは、第一富高小学校で寝泊まりをしました。小学校の近くには、飛行場がありました。今は警察署になっているところです。飛行機が離発着するのがよく見えました。富高小学校の上空で空中戦をしているのを見たこともあります。日本が負けるはずないと見守っていましたが、やられているのは日本の飛行機でした。

 沖縄はどうなっているのか、親兄弟がどうなっているのか分からず、不安でした。電話もない、手紙も届くか分からない状況の中で、家族が沖縄で元気にしているのか心配でした。10・10空襲のときは、沖縄は全滅という噂で皆泣いていました。

 そして、宮崎でも空襲が何度もありました。敵機が撃ち落とされることもありました。敵機が墜落すると、当時の小学5~6年生がその残骸を山に回収しにいきました。子どもでも人手として働きました。敵機に乗っていたアメリカ兵は、捕虜となり、小学校の朝礼の時間に見せられました。その時に、初めて日本人との違いを目の当たりにしました。アメリカ人は背が高いのだなと思ったのを覚えています。その当時、アメリカ兵は憎むべき存在だったので、沖縄にいる両親のことが、とても心配になりました。

 戦争が終わって沖縄に帰ると、疎開学童は浦添小学校に集められました。そこで、学童の親や兄弟が迎えに来るのを待ちました。皆、親や兄弟が迎えに来て一緒に帰っていきますが、私と姉、弟の3人はずっと待っていました。だんだん人が少なくなっていきますが、私たちのところには結局誰も来ませんでした。そこで、初めて私の家族全員が死んでしまったことを知りました。地獄に突き落とされるような気持でした。当時14歳と16歳だった兄は一中(現:首里校)の学徒隊、父は防衛隊として戦争に参加して戦死していました。

 戦前の私の家庭は、戦前なのにチョコレートを食べることができるほど、ある程度裕福でした。それが、沖縄に帰ると、家は跡形もなくなっていました。自分の家がどこにあったのか分からないほど、地形が変わっていました。浦添、特に浦添城址は本当に焼け野原でした。親戚の多くが親兄弟を亡くし、どの家庭にも戦争の被害がありました。たくさんの人が死んだのだと、幼いながらに感じました。

 戦後、疎開から一緒に戻った姉は、幼稚園の先生として働きました。しかし、心労からか、終戦からわずか2年ほどで亡くなってしまいました。残されたのは私と弟だけです。私は小学校6年生からアルバイトをして、弟を育てながら小学校を卒業しました。その後もアルバイトを続けながら高校、大学を卒業し、そして米国留学もすることができました。その当時は生活保護なんてなかったので、全てを自分たちで工面しなければなりませんでした。親戚が、私と弟を引き取ってくれるという話もありましたが、引き取る場合、兄弟バラバラで暮さなければならないとのことだったので、断りました。唯一、生き残った家族である弟と一緒に暮らす方を選びました。弟も私もアルバイトを続けて少しずつお金を貯めました。校の合間に朝は5時から、夜は11時まで毎日働きました。両親や兄弟が生きていれば、どんなに幸せだろうと思いました。

 私が中学1年生のとき、蓄えたお金で家を建てました。当時は、どの家も茅ぶき屋根で、その茅を集めるのが大変で、大人が10人から20人ぐらいが一日中働いて、やっと家がつくれるという状況でした。私が家を建てようとしていたとき、そのことが学校の先生の知るところとなりました。すると、当時の校長の親富祖永吉先生(学童疎開1班の引率教諭)が、浦添中学校の全生徒に呼びかけて、一人一束ずつ茅を家まで届けてくれました。そして、担任の福治友清先生、そのほかの先生方も大工さんと一緒になって家を完成させました。このことは、新聞で取り上げられ、それを読んだ高良一さんよりミシンの寄贈、渡口万年筆店より「不断の努力」と書き入れられたペンを贈っていただきました。また、ネクタイの店中田屋さんからは、衣類をいただき、今日でもお付き合いをさせてもらっています。皆さんのご厚意に感謝しながら、がんばることができました。

命ドゥ宝。戦争体験者の深い心の傷は消えることはありません。
戦争で消えるものはたくさんあります。すべてが消えてしまいます。
でも、平和で消えるものはありません。

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