私の疎開体験記(新垣 サダ子) 浦添国民学校 第1班

記事番号: 1-11185

公開日 2016年03月29日

~ 3か月間だけ、内地で勉強をするんだと聞かされていました ~

氏 名 : 新垣 サダ子  11歳 (疎開当時) 
出 身 : 経塚
所 属 : 浦添国民学校 第1班
疎開先 : 宮崎県富高町 (現日向市)第一富高国民学校

私の疎開体験記

 私は、浦添国民学校の5年生、11歳の時に2歳上の兄と一緒に疎開しました。ある日、学校で先生が「内地に勉強しに行きたい人いますか?」と聞きました。私は、何の勉強かな、どこに行くのかなと思いながらも、すぐに手をあげました。しかし、クラスで手をあげたのは、私と先生の娘さんの2人だけでした。あまりにも少なかったので「他に誰かいませんか?」と先生が言ったことを覚えています。

 先生には、3か月間だけ、東京に勉強をしにいくのだと言われていました。3か月だから短いし、ワクワクした気持ちでいっぱいでした。もちろんすぐ戻ってくると思っていたので、内地の冬のことや寒さのことは考えもしなかったです。

 私は、出発した日のことを覚えています。那覇の港から見ると、沖に大きな船がありました。その船まで桟橋からポンポン船に乗って、船につくと梯子を上って船に乗り込みました。海の真ん中だったので、そのまま海に捨てられるのかなと不安になり、悲しくなってなきました。お父さんとお母さんと離れるのはいやだと思い、その時に初めて肉親の別れは辛いと思いました。

 その日は、船上で泊まりました。夜になると海からは、電気がついた那覇を見ることができました。それを見ると涙が出てきて、一人が泣くと皆が泣き出すというような状況でした。船では、甲板に寝転がりました。浮き袋を渡されましたが、見たこともなかったので先生につけてもらいました。夜も甲板で眠りました。寝ている間に甲板から落ちてしまい、先生に元の場所に戻してもらっている子どももいました。

 鹿児島に着いたときは、ほっとしました。沖縄から来たので、私たちにとって、沖縄以外は全部内地でした。先生が、ここは鹿児島というところだよと生徒に説明していました。

 鹿児島からは汽車にのって、宮崎に行きました。私たち1班が向かった第一富高国民学校は、駅からすぐ近くにありました。私たちはそこで新しい生活をスタートしました。そこは都会で、近くに飛行場はあるし、鉄道もあるし、汽車の駅もある大都会でした。

 しかし、空襲が激しくなってくると、ここより田舎にある第二富高国民学校に移動することになりました。そこは浦添国民学校の第2班が疎開したところです。そこで私たちは合流することになりました。私たちが移動してしばらくすると、最初に住んでいた学校は空襲で焼けてしまったと聞きました。

 九州の寒さは厳しいものでした。冬は寒いです。寒いというのは分かるけれど、寒さのあまり足が痛くなるのです。沖縄であれば寒ければ家の中に入って風をしのぎますが、九州では家の中に入っても寒さをしのげません。室内でも手はかじかんで、足はしもやけで痛いのです。昼間はしもやけの痛さを忘れて遊びますが、夜はみんな痛くて泣いていました。泣くぐらい痛くて、毎日みんなで泣きました。

 疎開するときは、3か月間だけだと言われていたので、あまり荷物を持っていきませんでした。靴1足、靴下2足、タオル1枚、ハンカチ1、2枚、洋服が2、3枚、それに歯磨き。持って行ったものは、本当にこれぐらいです。そのため冬は洋服がなくて寒かったです。疎開先では、婦人会のお母さんたちにとてもお世話になりました。洋服を分けてもらって、それを先生がサイズの合う人に配りました。少ない持ち物でしたが、皆荷物を盗まれないよう、自分のものは自分で管理しました。靴でも盗まれれば大変なことになりますから。

 大雪が降り、雪が積もりました。初めて見る雪にはしゃいで、はだしで外に飛び出していきました。すると先生が、しもやけするぞと怒りました。それでも真っ白な雪が面白くて、皆で遊びました。積もった雪の中をかきわけて白いフワフワの雪に、沖縄から持ってきた砂糖をかけて砂糖氷にして食べたりもしました。夜は、先生が言ったように、しもやけで足が痛くて泣きました。

 3か月で帰れると聞いていましたが、あっという間に3か月が過ぎて、半年が過ぎました。それでも沖縄に帰ることはありませんでした。戦争は激しくなり、警報が鳴り、宮崎でも空襲がありました。沖縄では、爆弾が落ちて皆死んでしまったという噂もありました。先生にいつ帰れるのか聞く子はいません。何でもかんでも先生に聞くと、先生が困るということを子どもながらに感じでいたのです。夜は、寂しさや寒さで泣く子どもがたくさんいました。お母さんに会いたくて、私もよく泣きました。そうすると、上級生から泣かないようにと言われました。私たちが夜泣いているのは、先生にも聞こえていたと思います。戦争は、してはいけないことだと思いました。

 第二富高国民学校に移動して数か月がたったある日、私は先生に呼ばれました。何か悪いことでもして、怒られるのかと思って行ってみると、農家の奥さんから子守りを頼まれたので、私が行くようにとのことでした。その当時、先生の言うことは絶対だったので、私は、はいと言って住み込みでの子守りを引き受けることになりました。戦後は食糧難で先生方も子どもたちの食料の確保に頭を悩ませていたので、私が住み込みで出ることは良かったのかもしれません。

 私は荷物をまとめながら出発の準備をしました。荷物と言っても、着替えが何枚かと教科書ぐらいです。少ない荷物をまとめて、これから子守をする農家の家に向かいました。
 農家に着くと、そこには、夫婦待っていました。
「名前は何ていうの?」と聞かれ、「照屋 サダ」と答えました。
「それじゃあ、サダちゃんと呼ぼうね。」と言われました。そして、こう続けました。
「私たちのことは何て呼ぶ?」
 私は、そこの家の4歳になる長男が、夫婦を「おとっさん、おかっさん」と呼んでいたことから、同じように呼びたいと言いました。
「よし、これから私たちはサダちゃんのおとっさん、おかっさんだね。沖縄に帰るまでは、私たちがサダちゃんを預かるんだからね。」
 私はとてもうれしかったのを覚えています。そして、すぐにおとっさん、おかっさんと呼び始めました。

 そこは、大きな農家でした。畑があってみかんがとれるし、納屋もあったので、裕福だったのではないかと思います。そこで私は、まだ0歳のその家の次男の子守をすることになりました。

 着いたのは8月下旬頃だったと思います。夏休みだったので、翌日から何をするのだろうと思いながら眠りにつきました。朝起きると、今日から家族の一員ということで、私も一緒に朝ご飯を食べました。その後、おばあさんに呼ばれて、庭掃除や雑巾がけを教えられました。「私は子守に来たんだよ」と言って反抗したりもしましたが、「子守も掃除も一緒だよ」と言われました。

 そこは、とても良い家でした。家には、おとっさん、おかっさんのほか、4歳になる長男、0歳の次男、そして祖父母がいました。朝起きると、庭掃除や 雑巾がけなどを皆でしました。そうこうしているうちに、本当の家族になった気持ちでした。2学期がはじまり、学校に通いだすと、友達の同級生に「お金持ちの家に行けてよかったね。これで美味しいごはんが食べれるね」と言われました。

 農家で暮らしているとき、覚えていることがあります。それは、子どもがいなかったおとっさんの姉夫婦に、養女にならないかと言われたことです。
「サダちゃん、うちには子がおらんけん、サダちゃんがうちの子にならん?そしたら女学校だって通わせるし、食べ物も食べれるよ。」
「いえ、沖縄でお父さんもお母さんも待っている。戦争が終わったら、私は沖縄に帰らないといけん。」
「なら、沖縄に帰って、もし嫌だと思ったら、いつでもこっちおいでよ。」

 おばさんは、とても優しかったです。おばさんの着物をほどいて、私の普段着を作ってくれたこともあります。私は、本当に良い人たちに巡り合えたのだなと、今でも感謝しています。

 農家での生活を始めて10か月ほどたった頃、私の従兄弟が私と私の兄を訪ねて来ました。従兄弟は復員後、一般疎開をしていた従兄弟の姉を頼って熊本の天草で過ごしていました。そこで、天草に私たちを呼び寄せようと思い、宮崎に来たのでした。私は、迎えに来た従兄弟と一緒に天草に行くことになりました。しかし、宮崎では畑を耕すために、どうしても男手が必要だったので、私の兄は残ることになりました。こうして私は農家を出ることになりました。

 天草に向かう日、私は農家の家族に御礼を言いました。
「沖縄で食べるのがなくて苦しいときは、手紙を書くんだよ。いつでもここに戻っておいで。」
 そう言って、おとっさんとおかっさんは、お金とおにぎりを持たせてくれました。寂しい気持ちと感謝の気持ちでいっぱいでした。

 天草に移動して数か月が過ぎたころ、疎開者が帰還することになりました。私は、従兄弟と一緒に沖縄に戻ることになりました。

 沖縄に戻る船の中、誰かが「那覇が見えてきたぞ~」と言いました。船から沖縄を見ると、桟橋には大きな黒い人がいました。黒人を今まで見たことがなかった私は、びっくりしてしまい、沖縄がアメリカになったのだと感じました。とても怖く感じました。

 そこから私たちは久場崎の収容所(インノミヤーディ)に連れていかれました。そこにはテントが張られていて、どこにどの家族が何人、どこに何人と分けられました。

 何日間かそこで過ごした後、トラックに乗せられて浦添国民学校に連れていかれました。そこで、家族が疎開児童を迎えに来ました。私は、誰かが迎えにくるのをそこで待ちました。幸いにも母も姉も沖縄戦を生き残っていたので、家に帰ることができました。しかし、そこに父はいませんでした。兄も姉もいませんでした。父の祖父母や母の祖父母、そのほか、たくさんの親戚が戦死していました。お父さんっ子だった私は、悲しくてところ構わず泣いていたそうです。

 宮崎では良い思い出も苦しい思い出もたくさんあります。そのような中、農家への子守をしたことは、私にとって忘れることができない思い出です。恵まれたところに子守に行かせてもらったと、今でもとても感謝しています。戦後50年のとき、宮崎県を訪れ、50年ぶりに子守をした家族に会うことができました。子守をしていた当時0歳の子どもは、50歳になっていました。お兄さんにそっくりな、立派な男性になっていました。お互いに「会いたかったよ」と映画のワンシーンのように抱きあってうれし泣きをしました。

 残念ながら、おとっさん、おかっさんはすでに他界していて、会うことができませんでした。仏壇に線香をあげると、疎開当時のことがよみがえってきて涙が止まりません。私があまりにも泣くので、長男も一緒になって泣いてしまいました。

 その後も現在の日向市との交流は続いています。あるとき、疎開先の児童たちと集まる機会がありました。そこでは、昔のなつかしい顔を見ることができました。サダちゃん、サダちゃんと昔の呼び名で呼ばれて、昔に戻ったようでした。

 なつかしい顔ぶれの中に、疎開当時のいじめっこもいました。その人は私に近づくと、「サダちゃん、あのときは、いじわるしてごめんな。」と言いました。私は、「あなたも覚えていたんだね。私も忘れていなかったよ。あのときは皆子どもだった。大人になった今なら許してあげるよ。」と答えました。そして、「言ってくれてありがとう。そして、私のことを覚えていてくれてありがとう。」と付け加えました。みんなで泣きながら、昔のことが笑い話になりました。

「サダちゃんは、疎開して良かった?その当時はよく喧嘩もしたけれど。」と周りからよく聞かれます。当時、学校の先生は疎開児童をいじめてはいけないと教えていたようです。しかし、それでも中には沖縄の子どもをいじめる人がいて、衝突することがよくありました。私は疎開について聞かれると、いつも「本当に良かった。あなたたちと友達になれたから。一生涯の友達よね。」と答えます。「でも、これからは疎開のない、戦争のない世の中で暮らそうね。」とお互いに話します。

 交流は70年たった今でも続き、夏にはこちらからマンゴーや黒砂糖を贈ったりしています。あちらからもお米やみかん、しいたけが届いたりと、体が動きにくくなってから日向市を訪れることができなくても、今でもお世話になった日向市のことを忘れることはありません。

「戦争のときのこと聞かせて、おばぁちゃん」
と孫に聞かれることがあります。70年たっても、なるべく戦争のことは思い出したくないときがありますが、孫に当時のことを話します。
「あんまり良い話ではないんだけどね。ばあちゃんは宮崎に行っていたから助かったよ。でも沖縄にいたら大変だったみたいよ。全部戦争で焼けてしまった。ばぁちゃんのお父さんやお兄さん、お姉さんも戦争で死んでしまったんだよ。」
 当時のことを教えたくても、涙が出てしまい、たくさん話すことができません。
「あなたたちは、一生懸命勉強して、良い大人になって、戦争のない世の中にしてね。戦争だけは、絶対にあってはいけないよ。」
これが、私の願いです。私の子や孫には、この戦争の苦い思いはさせたくありません。

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