記事番号: 1-11955
公開日 2017年06月01日
72年の時をこえ
なぜ、私はここにいるんだろう
かつて浦添村だった頃。
「トゥントゥンテン」と家々からは三線の音色が聞こえ、野山では子どもたちの明るい声が響き渡る。戦前の浦添村前田はそんな光景が当たり前のように広がっていました。家々はかやぶき屋根に所々に赤瓦屋根の家が存在。十五夜の日には綱引きをし、夜は特設舞台で村芝居や組踊、前田棒の演舞を楽しむというように、前田は平和そのものでした。
しかしながら、その光景は1944年頃沖縄に日本兵が入ってきてから一変し、後に激戦地だったと語られるように戦争という渦の中に巻き込まれていくのでした。
激戦地だった浦添
1945年4月1日、北谷町から読谷村にかけての沿岸は、辺り一面米軍の艦船で埋め尽くされ、米軍は圧倒的な兵力を携えて上陸し、日本軍司令部のある首里攻略に向けて進攻しました。
日本軍は、宜野湾市の嘉数高地と浦添前田高地(浦添グスク一帯)に陣地壕を構えるなど防衛線を張り、侵攻してくる米軍を迎え撃ちました。
特に前田高地は、高いところで140mの高さがあり、東西南北の方向を見渡すことができる場所であったため、日本軍にとっては軍司令部のあった首里の防衛線として重要な場所とされました。
また米軍にとっても、眼前にそびえる絶壁の前田高地(米軍呼称「ハクソー・リッジ(のこぎりで切ったような断崖」)を制することが、首里を攻略し、日本本土への進攻の第一歩として位置づけられ、頂上における日米両軍の激しい攻防戦は12日間にも渡り繰り広げられました。
地上では米軍の戦車や装甲車が進攻し、おびただしい数の銃弾が飛び交い、壕には手榴弾が投げ込まれました。空からは「鉄の暴風」と表現されるほどの凄まじい艦砲射撃と爆弾投下が繰り返され、「前田高地の戦い」では両軍のみならず多くの住民もその犠牲となりました。
熾烈を極めた戦いは「ありったけの地獄を一つにまとめた」と言われるほどで、沖縄戦最大の激戦地となったのでした。
ぼくたちの戦争の記憶
焼け野原となった前田
戦争当時小学生だった5人。それぞれの壮絶な体験、脳裏に焼き付いた光景、
「平和だったら…」と子どもながらに感じていたこと。すべて真実の記憶。
「あんな戦争は二度と起こってはならない」平和への願いを込めて語ってもらいました。
「死体が入った棺の中に隠れ うじ虫が身体中についていた」
石川幸助さん(81) 当時9歳
戦火から逃れる途中、母がケガをしてしまい「あなただけでも逃げなさい」と言われ、独り前田小学校近くの遠い親戚のお墓に逃げ隠れました。飲食せず1週間、空腹と喉の渇きで、自分の小便や泥水を飲みました。小便は鼻から抜けるアンモニア臭により吐き気がしました。壕を転々としていた時に、んめぇ(おばあさん)、たんめぇ(おじいさん)と出会いがありました。
動けない2人のためにきゅうすで泥水を汲んで持っていくととても喜んでくれました。出会ってから1週間の内に2人とも亡くなり、しばらく経つとうじ虫や銀バエが湧いていました。
「私が死んだら顔に私の着物をかぶせてほしい」と、生前んめぇと交わした約束を果たすため、私は着物をかぶせようとしましたが、何かに引っかかりかぶせることができず、約束を果たせなかったのが今でも心残りです。
その場を後にして他に隠れる壕を探しました。前田部落を作った方の墓に行き着きました。中は骨壺と死体が入った棺でぎっしり。入り口からちょっと入ったところに座って「平和だったら、青々と生い茂った草木を刈って、ウサギやヤギにエサやりができたのになー」と思いつつ外を眺めていました。その時、「ヒューイ!」という口笛が鳴ったのを聞いて、「アメリカ兵に見つかってしまった!」と思い、急いで死体が入った棺の中に入っておじいさんの上にかぶさるようにして隠れました。死体のあばら骨がつぶれる音がしました。見つかってしまっては殺されると息を潜めて隠れていましたが、銃剣でふたをを開けられ引っ張り出されてしまいました。
棺から出た時には体がじめっとしていました。着物の切れ端やらうじ虫やらが体中に付いていたのを払いました。その様子を見たアメリカ兵もかわいそうだねーと思ったのかもしれないですね。ポケットからチョコレートを出し自分が食べているところを見せて、私に手渡しました。それを見た私は安心してチョコレートを食べました。水も飲ませてもらいました。おいしくて仕方ありませんでした。その後は捕虜となり、死んだと思っていた母とも収容所で再会でき、戦後2人で必死に生きてきました。
「長男としての役目を果たす その思いだけでした」
石川仁助さん(85) 当時13歳
私は学童疎開のため那覇の上江洲旅館というところで待機しながら、痩せこけて足を患っていた母のことを想い、「長男として母をお墓に入れられないと一生の悔やみだから疎開はしない」と引率の先生に断りを入れました。先生からは「疎開しなければ死ぬかもしれないよ」と言われましたが、私の決意は変わりませんでした。見送りに来た父親と一緒に浦添に帰って来ました。「仁助が残ったのは祖先からのお告げであり、仁助の役目なんだ」と祖父が言っていましたが、その言葉どおりになりました。
父を含めて兄弟3人、戦争に召集され私が中心となり家畜などにエサやりをしたりと生活を支えなければならなくなりました。1945年4月1日に北谷から読谷にかけてアメリカ軍が上陸したのは知っての通り。私は前田小学校近くの壕に隠れていました。南進して来た米軍が浦添に入って来て、緑豊かだった浦添は戦車の火炎放射によって焼き払われ、朝まで青々とした風景が一日の内に焦げと化しました。「ここに残っていたら死んでしまう」と家族で命からがら南風原まで逃げました。
家族6人の命を奪った戦争は思い出すのも辛い記憶ですが、二度と戦争を起こさないために体験を読んで平和のことを考えてもらえればと思います。
「不運にも私だけ手榴弾の破片が足に当たってしまいました」
比嘉大造さん(82) 当時10歳
1944年、日本兵が学校にやってきました。手榴弾の実演を体験させるということで4クラスの生徒が学校に呼び出しされました。3回実演があって、1回目の時にその破片が足に当たってケガをしました。温かさを感じ、足を触ったら血が出ていたんです。不思議なことに痛くなかったので黙っていたのですが、実演が終わった時に先生にケガしたことを話すと、日本兵が私を抱っこして病院まで連れて行ったのをお覚えています。その件があって「沖縄に居たら大変だ」と親がすぐに疎開手続きをして疎開することになりました。疎開船3隻の内の1隻は対馬丸で、私は別の船から対馬丸が炎上して沈没するのを見ました。とてもひどい光景でした。
「家族みんなで故郷での死を覚悟しました」
親富祖正市さん(80) 当時8歳
防空壕に隠れていた時に、いよいよ戦いが激しくなって「この辺は危ないから逃げたほうがいい」という情報が入ってきて、首里に逃げました。そこからまた糸満市名城まで逃げ、もっと南下しようと思いましたが、バックナー中将が殺られたことにより、アメリカ兵が無差別に人を殺しているという情報を聞き、途中一緒になった家族と「どうせ死ぬなら自分たちの部落に帰って死にましょう」と引き返した途中で捕虜となりました。
捕虜収容所では、食事などの配給があり生きることができました。夜な夜な日本兵が出てきて、配給された食料を奪っていくということもあったようです。
「爆弾により目の前で母を亡くしました」
親富祖清武さん(84) 当時12歳
私には家族が9人いたのですが、母も含めてみんな戦争で亡くなり、私は戦争孤児として生きてきました。
昭和20年3月23日、小学校6年生の卒業式の日でした。空襲の合図であるサイレンが鳴ったと思うと飛行機のごう音が聞こえ、「解散!」の合図で一斉に自宅へと帰りました。
防空壕に隠れながら朝は早く起き芋ほり、それが終わったら豚の世話をする毎日が続きました。4月2日、様子を伺いながら豚の世話をするなどし仕事を終えた後に母と家に行きました。母は台所で大きな鍋のすす払いをし、私はそのすぐ近くで母の仕事が終わるのを待っていました。その時、家の近くに爆弾が落ちたようで「ボン!」と大きな音がした瞬間に、母が釡と鍋の間に頭を突っ込んだ状態になりました。急いで駆け寄り母を起こそうとした時、頭から血を流しているのが分かりました。爆弾の破片が当たったようで即死でしたね。助けを求めましたが周りの人も逃げるのに精一杯。助けることができませんでした。
平和を伝えつなぐ
伝える人がいます。伝える映画があります。
72 年経った平和な「今」だからできる戦争の伝え方。
紙芝居に思いを込める
知名正男さん
知名正男さん(74)
てだこ市民大学の卒業レポートで前田高地の戦いを取り上げるにあたり、戦争体験者への聞き取り調査を行いました。
前田の住民の悲惨な戦争体験を記録することは、体験者の高齢化もあり時間的に切迫していると感じました。聞き取りを通して、苦労してきた人々の記憶を共有し、後世に伝えることが地域に住む者の務めです。
その聞き取りを行うのは、現在前田に住む私の使命であり、子どもたちにも伝わるようにと、戦争体験者の話を紙芝居にして伝えるという現在の活動につながっています。
今後も聞き取り調査を続けて、子どもたちに戦争の悲惨さを伝えていきたいと思います。
自ら学び共有する
平和学習の様子
毎年市内5校の中学校から2人の生徒が派遣され結成される中学生平和交流団。
市内や県内・県外の戦争の歴史を学び、その上で自分たちに何ができるかを考え、それぞれが主体的に平和のためにできる取り組みを実践しています。
これまでに274人の団員が参加しており、平成25年度からは「ピースメッセンジャー」として認定し、市戦没者追悼式やまなびフェスタなど様々な場面で平和への想いをつないでいます。
※「中学生平和交流事業」は平和を伝えつなぐ取り組みとして、平成8年度から実施しています。
映画から伝える『ハクソー・リッジ』
ハクソー・リッジ
2017年第89回のアカデミー賞で2部門を受賞した、メル・ギブソン監督作品「ハクソー・リッジ」。この作品は、米軍が首里へ侵攻した際、最大難所であった断崖絶壁の高地(浦添城跡周辺)が舞台となっています。主人公のデズモンド・ドスが、衛銃弾や爆弾が飛び交う中、「一人でも多くの人を助けたい」という信念で、事実75名の負傷者を助けました。この時、日本兵も手当したということが分かっています(負傷兵が捕虜になったとき、すでにアメリカ軍の包帯が巻かれていた)。敵、味方分け隔てなく助けたドスの実話から、身近に戦争を感じてもらえるのではないでしょうか。
海外では昨年の11月に公開され、多くの人々がこの前田高地での戦いに関心を持ち、日本人、外国人を問わず前田高地、浦添城跡に足を運ぶ姿が増えています。
クジールさんファミリー
クジールさんファミリー
取材中にある家族との出会いがありました。アメリカのテネシー州から家族に会いにきたクジールさんファミリー。日本行きの飛行機の中で『ハクソー・リッジ』を観てこの場を訪れたということで、この場に立って思うことを聞きました。
「自分たちの国で見聞きしただけでは自分たちの国の側に立った視点でしか物事が見ないことがあります。
沖縄に来ていろいろな戦跡を巡って思ったことは、アメリカ軍が家族を大事に想って戦っていたように、日本兵にも同じように家族がいて、家族のことを想って家族のために死んでいった。どちらの国も同じ気持ちで戦っていたことを知ることができました。
戦争というのは、お互いの国にとって悲惨な歴史であり悲しい犠牲をはらいました。しかし、それを乗り越えてきたからこそ私たちの家族がある。今回の旅行は家族のつながりを再認識するとても意義のあるものでした。」
この平和が、この笑顔が ずっと続いて欲しい
武器を手にした人間同士が殺りくを繰り返し、住民をも巻き込んだ先の大戦ではおよそ20万人(うち沖縄県民が15万人)の人たちが命を落としました。
戦争の記録を辿る中で出会った5人の戦争体験者からは、壮絶なまでの戦争の記憶が語られましたが、決して言葉に言い表せないにじみ出る想いを感じました。
人々は絶望の淵に立ちながらも「死んでしまってはおしまい」「生きてこそ世のため、人のためになる」という想いで必死に生き抜きました。
悲惨な歴史の教訓から生まれた言葉が「命(ぬち)どぅ宝」(命こそ宝)という言葉であり、生きたくても生きることができなかった人たちの想いや生き延びた人たちの「真に平和を願う心」が託されています。
その心をどのように伝えつなぐかは、人それぞれ。紙芝居という形で伝える者もいれば戦争の追体験から戦争の歴史を学び平和への想いつなぐ取り組みを行う中学生たちがいます。72年経った今だからできる伝え方があります。
あなたならどのように平和への想いを伝えますか?
今、激戦地だった前田高地からは、整備された道路や建ち並んだ家々が見え、学校からは子どもたちの元気な声が聞こえてきます。道端には可愛らしいピンク色の花が咲き、浦添城跡付近に広がる芝生では家族が憩い、子どもたちが花を摘んだり、笑顔で駆ける光景が見られます。
子どもたちの様子
平和とはその何気ない光景そのものであり、今平和を感じられるのは先の大戦で失った多くの命の上に立っていることに気づくことはもちろんですが、「命(ぬち)どぅ宝」という信念の下生きてきた私たちのおじいちゃんおばあちゃんが居たから私たちが存在するということに感謝しなければなりません。
悲惨な歴史を乗り越えて国籍の違う者同士が家族となり強い絆で結ばれる。悲惨な歴史から目を背けずにお互いのことを知る、「相互理解と共存意識」を高めていくということが平和を維持していくためには重要であり平和への第一歩なのかもしれません。
この時期、前田高地周辺にはシロツメクサが多く咲き乱れます。ある人によると四葉のクローバーが多く見つかる場所があると言います。
それはもしかすると、戦争で亡くなった人々の平和を願う想いの現れなのかもしれません。
激戦だった前田高地が幸せの地と書いて「前田幸地」であるようにと、いつまでも幸せな笑顔が絶えぬ世の中であることをこの地から願わずにはいられません。