記事番号: 1-7078
公開日 2016年08月30日
平成28年度 ピースメッセンジャー
石川ひなの(浦添)・与那嶺実々(神森)・嘉味田凛乃(仲西)・前盛来華(浦西)・宮城早彩(浦添)・上里琉奈(港川)
福里羅偉華(浦西)・比嘉隆太郎(港川)・古波蔵好太郎(仲西)・新城一大(神森)
第1回事前研修報告
第1回事前研修で「浦添・宜野湾めぐり」をしました。
嘉数高地では切り込み隊による「肉弾戦法」により攻めてくる米軍の戦車に爆弾を抱え体当たりをし、1日で敵戦車30両のうち22両を破壊するなど、とても激しい戦いがありました。
そのような中、住民は日本軍と行動するのが安全だと考えて一緒に行動し、南部への避難も遅れた結果、かえって長期間も地上戦に巻き込まれ、多くの犠牲者を出しました。
京都の塔と青丘之塔を訪れ、嘉数高地での戦いでの被害者は沖縄の人だけではなく、京都や朝鮮の人など沢山の人が犠牲になったことを知りました。
沖縄戦では、罪のない多くの人が苦しめられ、傷つけられ、たくさんのものを奪われました。この研修で学んだことを多くの人に伝え、戦争のない世界を作っていきたいと思います(前盛来華・浦西中)
浦添市前田では、陣地壕やガマなどを見学しましたが、中でも心に残っているのは前田高地平和之碑です。前田高地では日米両軍一進一退の死闘が展開され、1回の戦闘で36時間も続いたこともあったそうです。
日本軍は前田高地が王宮付近であったため、容易に戦線を突破させることができなかったため、米軍が集中攻撃をする間は壕内に待機し、米軍が前田高地の頂上に登りつめたところを反撃するという戦法を繰り返しました。その後、軍司令部は総攻撃を実施するとしましたが、それは1回成功しただけで他では進展がなく、結果的に総攻撃は失敗に終わりました。
総攻撃の犠牲者は全兵力の半分で、アメリカ兵は800人で突撃し、前田高地を下るときには324人に減っていたそうです。そのため、米軍には「ありったけの地獄を集めた戦場」と言わしめたほどの戦いだったそうです。
このような悲惨な戦争を繰り返さないように、毎年できるだけ平和の碑を訪れ、亡くなられた方が安らかに眠れるよう祈りを捧げていきたいです。(福里羅偉華・浦西中)
第2回事前研修報告
この研修では南部戦跡巡りをし、そこであった悲惨な出来事、平和の尊さを学びました。
まず初めに衝撃を受けたのは、鉄筋コンクリートでとても頑丈に造られた壕、かつての第32軍司令部が首里城の下にあったことです。そこでも激しい戦闘が行われたそうで、壁には弾丸の跡が多数あり、米軍の攻撃の凄まじまさを物語っていました。
平和記念資料館では一つ一つの資料に細かく説明が書かれていて、当時の出来事を深く知ることができました。ガマのレプリカの中に入ってみると灯りが少なく、地上に落とされた爆弾による爆音が響いてちょっとした恐怖感を覚えました(新城一大・神森中)。
私は、平和の碑、平和の火を訪れました。そこでは浦添や西原で名前が分らずに亡くなった方々を探してみると約40名もいることが、とても心に残りました。また、平和の火には一つだけの意味ではなく、複数の意味があることが解りました。
ひめゆり平和記念資料館では、日本兵による食糧強奪や乳幼児虐殺などがあったにも関わらず、日本兵ならば安全だとついていく沖縄の人たちが多数いたために犠牲者が多くなったことを知りました。
私は普通に授業で聞いていた戦争の状況とは違い、日本兵がこんなにひどいとは思わなかったので、今回の研修を通していろいろな発見がありました。今回学んだことを活かし、次世代の人たちや友達に戦争の恐ろしさを伝えていきたいです(与那嶺実々・神森中)。
長崎市戦跡巡り
私は長崎市戦跡巡りを通して、長崎であった原爆投下によって多くの尊い命が奪われ、建物も大きな被害を受けたことを知りました。
長崎に落とされた原爆「ファットマン」により、爆心地から南東へ約800mのところにあった山王神社ニの鳥居は、爆風により片方だけが残りました。一本柱鳥居と呼ばれるこの鳥居を見た時、私は衝撃を受けました。とても丈夫そうな鳥居なのに、片方が爆風によって倒れて無くなり、残った一本柱鳥居には書かれていたはずの文字が消えていました。私はこの鳥居を実際に見て、原爆による爆風の大きさを一瞬にして実感しました。
実際に被曝をされた永井隆博士は、自身が大怪我を負ったにも関わらず、爆発直後から生き残った意志や看護婦、技師とともに何度も意識を失いながら救護活動を行ったそうです。博士は白血症で亡くなるまでに17冊の本を書き、それによって人々に平和と命の大切さを訴え、生きる希望と勇気を与えました。
被曝された人たちを助け、その後も如己堂と呼ばれる教会の仲間から贈られた2畳ほどの小さな家で病で寝たきりの状態でありながらも原爆による病気の研究や本を書くなど、永井博士が平和な世界を目指して努力してきたことを知り、博士の平和への思いを実感しました。
私は長崎で原爆について学んだこと・知ったことを家族や友だちに伝え、平和な世界に少しでも近づけるよう努力をしていきたいと思いました(石川ひなの・浦添中)。
第1回平和集会(長崎県)
私たちは原爆落下中心地で第1回平和集会を行いました。そこで自分たちで作成したメッセージの朗読や千羽鶴を献呈しました。
71年前の8月9日午前11時2分、この爆心地に立つ三角柱の上空500mで、アメリカ軍に「ファットマン」と呼ばれた長さ3.25m×直径1.52m、重さ4.5tの原子爆弾が爆発し、長崎に大きな被害をもたらし沢山の人々の命を奪いました。
三角柱の周りにはこれを中心にして同心円が広がっていましたが、これは広がっていく原子爆弾の爆風、熱戦、放射線などを示しているそうです。
また、その横には浦上天主堂の遺壁が移築されており、原子爆弾の影響で壁が欠け色が変わり、人の像の手足が欠けていたり、そこにあるはずのものが無かったりしていて、爆心地から500mも離れていたはずの建物がこのようになってしまうのなら、人間などひとたまりもなかっただろうととても悲しくなりました。
今後、核兵器が使われることがないように原子爆弾のことを周りの人たちに伝えたり、戦争について学んだりと、私たちにできることを頑張っていきたいです(宮城早彩・浦添中)。
青少年ピースフォーラム
私たちは長崎で青少年ピースフォーラムに参加しました。
青少年ピースフォーラムでは、実際に被曝された永野悦子さんの講話を聞いて、原子爆弾が落とされた当時の様子や、その恐ろしさを学ぶことができました。その講話で永野さんは、原爆は一瞬でたくさんの命を奪ってしまうこと、原爆の影響で周囲が火の海になるほど悲惨な光景が広がっていたことを話してくださいました。
私の中で一番印象に残っている言葉は、「平和をみんなで作る」という言葉です。平和をみんなで考えて作っていくことで、戦争が起こらない平和な世界の実現が出来るのではないかと思いました。
フィールドワークでは長崎平和祈念館を訪れ、原爆で亡くなった人の名前が刻まれていることを知りました。核兵器についての説明を読むと、世界にはまだまだたくさんの核兵器があることを知り、一刻も早く核兵器のない世界になるよう、多くの人がその恐ろしさを知って欲しいと思いました。
今回は、全国からの参加者と平和についての意見を交換しあって、様々な意見や考えを知ることが出来ました。自分では思いつかないような意見もあり、自分の平和に対する意見を広げることができました(嘉味田凛乃・仲西中)。
長崎平和祈念式典
長崎平和祈念式典にはたくさんの人が参列していて、被爆者や長崎市民、そして僕たちのような平和学習をしに全国から訪れた人たちが参加していました。
まず、式典のはじめに被爆者の人たちが「もう二度と」という歌を歌いました。『もう二度と作らないで、私たち被爆者を』という歌詞が、被爆者の皆さんが体験した恐ろしい原爆と、それによる犠牲者を増やしたくないという気持ちがビシビシと伝わってきました。
次に「献水」です。この意味は原爆が落ちた時、水を求めてさまよい苦しみながら亡くなっていった被爆者へ捧げる清水で、多くは湧水や滝水だそうです。僕は献花以外に献水というものがあることに驚き、被爆者のことを考えてのことかと感じました。
11時2分になると亡くなられた方へ黙とうを捧げると、その後、長崎市長、安部総理がそれぞれ平和への考えを述べました。長崎市長は、『今年、ジュネーブの国連欧州本部で核軍縮交渉を前進させる法的な枠組みについて話し合う会議があるのに、核兵器保有国が出席していない。このままでは核兵器廃絶への道筋が絶たれてしまい、最悪の状況になってしまう可能性がある』とし、僕たち若者の未来を奪わないために一日も早く核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くすことを宣言していました。
この式典を通して、沖縄だけでなく長崎でも心に深い傷を負った人がいて、やはり戦争は絶対に起こしてはならないことを再確認しました。そして、戦争を起こさないために、しっかりと戦争のことについて学び、知人・友人・家族などの周りの人に伝えていきたいと思いました(比嘉龍太郎・港川中)。
第2回平和集会
私たちは平和祈念像前で第2回平和集会を行いました。そこでは平和のメッセージの朗読と献花、黙とうを行いました。祈念像のある平和公園では、国内外から集まった沢山の人たちが私たちと同じように原爆の歴史や平和について学んでいました。沖縄と同じように沢山の人が亡くなった長崎でも、戦争が無く平和であって欲しいという気持ちは変わらないのだな、ということを感じました。また、平和祈念像のポーズが何を表わしているのかとガイドさんに伺ったところ、右手は原爆を意味し、左手は平和を現しているのだそうです。
黙とうの際、二度とあのような悲劇を繰り返してはならないと感じましたし、戦争を二度と起こさないためにも、平和とはどのようなものかをもっと考えていくべきだと感じるなど、平和集会は短い時間ではありましたが多くのことを学ぶことができました(古波蔵好太郎・仲西中)。
恵の丘原爆ホーム訪問
本研修の最終日、私たちは恵の丘原爆ホームという場所を訪問しました。そこでは、頑張って練習したエイサーを披露した後、被爆者の坂本トヨコさんから体験談を聴かせてもらいました。
坂本さんは実家に帰っている時に被曝しました。原爆により首だけが出ている状態で押しつぶされ、すぐには身動きが取れなかったそうで、やっとのことで母と外に出ると、おばちゃんは目玉が落ちて耳が垂れ下がり、皮膚が着物にくっつき、何とも口では表せない状態だったと語っていました。
壕に逃げても水を求める人でいっぱいで、「水をあげたら死ぬぞ!」と怒鳴られ、そこを『生き地獄』だと思ったそうです。
旦那さんも背中にガラスの破片が何十個も刺さっており、取り除けた分だけでも23個もあり、取れない小さなガラス片のせいで仰向けに眠れない人生を送ることになりました。
私はこの体験談を聴いた時、本当にこんな残酷な事が、この日本で起きていたのかととても驚きました。罪のない人が無差別に殺され、一生その後遺症に悩まされながら生きていくなんて考えられません。戦争がある限り、私たちも同じ体験をすることがあるかもしれません。
このような愚かな殺し合いをもう二度と起こさないために、私たちは身近なことで何が出来るのでしょうか。私は、より多くの情報を頭に入れておくことが大事だと感じました。近くの戦争体験者から体験談を聴いたり、平和に関する講話に参加することなどが、私たちができることの一つだと思いました。
最後に、思い出したくないはずの戦争の記憶を語ってくれる被爆者の方に感謝をしないといけないと思いました。そして、坂本さんの願いは『核兵器のない世界・平和な世界を作ってほしい』ことです。私たちはこの願いを叶えるために、多くの人たちへ戦争の悲惨さ、残酷さを正しく伝えていきたいと思いました(上里琉奈・港川中)。