記事番号: 1-4825
公開日 2018年03月12日
平成29年度 ピースメッセンジャー
松田佳子(神森)・稲福優衣(港川)・高良日奈子(仲西)・野原日菜乃(浦西)・片寄空美(浦添)
兼次琉世(浦西)・久志勇雅(浦添)・玉那覇清美(歴史ガイド)・片桐涼音(神森)・儀間大輝(仲西)・照屋佑喜仁(港川)
第1回事前研修報告
私達は、第1回事前研修で「浦添・宜野湾戦跡巡り」をしました。
初めに浦添市牧港にあるチヂフチャー洞穴遺跡を訪れました。チヂフチャーガマは、全長110mもあり、戦時中は住民の避難壕として利用されていました。そこは薄暗くて湿気も高く、見学時にはかなりの暑さで虫もたくさんいました。当時は子どもやお年寄りなど、多い時で400名近くの住民が避難していたそうですが、このような場所にずっと隠れていたことを考えると、とても苦しかっただろうなあと感じました。
次に、宜野湾市にある嘉数高地と呼ばれる嘉数高台公園を見学しました。そこは、沖縄戦当時、沖縄戦最大の激戦地だったといわれている場所です。嘉数公園には「弾痕の塀」や「トーチカ」、またいくつかの慰霊碑があります。「弾痕の塀」は、日米両軍の攻防戦による銃弾・砲弾の跡が残され、戦争の過酷さを物語っており、心に深く突き刺さりました。(久志勇雅・浦添中)
浦添市前田では、陣地壕や前田高地平和之碑、ガマなどを見学しました。中でも心に残っているのは浦和の塔です。浦和の塔は浦添の浦と平和の和を合わせて浦和となっていて、沖縄戦で散華した人々を祀る慰霊の塔です。浦添市では、毎年10月に戦没者追悼式を催し、戦争で亡くなられた御霊のご冥福と世界の恒久平和を祈念しています。
私たちは、今回の戦跡めぐりを通して私たちのまち浦添市も戦争の悲惨な歴史があった事実を学び、戦争の愚かさや平和の尊さについて考えることができました。また戦没者追悼式がある事を知り、毎年できるだけ浦和の塔を訪れ、亡くなられた方々が安らかに眠れるように祈りを捧げていきたいです。(片寄空美・浦添中)
第2回事前研修報告
私たちは、第2回事前研修で、沖縄市で開催された「おきなわピースサミット2017in沖縄市」に参加し、県内9市町村の平和大使とともに、交流を通して平和について考えました。
ピースサミットでは、参加型基調講演と題して異なる市町村の平和大使を4人一組にして、そのメンバーを中心に活動しました。みんな初対面なので、最初は緊張していましたが、グループ活動を進める中で、だんだんと緊張がほぐれ、最後は沢山の意見が話し合いの中で出されました。そのグループ活動は、沖縄戦の写真や証言を見て感じたことを話し合ったり、地図と年表を合わせながら沖縄戦の経過などを学びました。今回、沖縄戦の実相を明らかにしていく過程を体感することで、「知識としての沖縄戦」に加えて、どうすれば世界は平和になるのかなどこれからの平和について考える、大変良い機会となりました。(照屋佑喜仁・港川中)。
他の平和大使と交流していく中で、一人一人しっかりと自分の考えを持っていて、自分の考えとは違う様々な意見に触れ、今まで気づかなかった視点から物事を見つめることができました。そして、自分の意見と、他の意見の良いところを合わせれば、更にいい意見になると実感しました。
このことは、今回の平和学習だけではなく、日常生活でも役に立つと思うので、今後もいろいろな視点から物事を見ていきたいです。(稲福優衣・港川中)。
第3回事前研修報告
私たちは、第3回事前研修で、南部戦跡めぐりや平和祈念資料館などを見学しました。糸満市摩文仁にある平和祈念公園で、平和の礎や平和の火を見学しました。平和の礎は「平和のこころ」を広く内外に伝え、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑です。中には、名前が不明な戦没者の名前も、○○の子などという形で刻銘されていました。約、24万人の死没者が刻銘されているそうですが、その数は、今でも、毎年、増え続けています。刻銘により生きた証だけでも残っていることは、とても良いことだと思いましたが、数えきれないほどの犠牲者の数に、悲しみで胸が苦しくなる思いがしました。
最後に、轟の壕を訪れました。入口はとても狭く、頭をぶつけそうなほどでした。中に入ると、人が住んでいたとは思えないほど真っ暗でした。今まで私が思っていた以上に残酷で、不眠不休の過酷な労働や、引率の人が集団自決を決めたと知って衝撃を受けました。(野原日菜乃・浦西中)
今回の南部戦跡めぐりや資料館の見学では、これまで知らなかったいろいろな事実を知ることができました。日本兵による食糧強奪や乳幼児虐殺など、住民に対してひどい行為が行われていたこと。また、私がとても衝撃を受けたことは、証言ビデオで話をされていた方が、「毎日どのようにして死ぬか」ということしか考えていなかったということです。
私達は、研修で学んだ、二度と繰り返してはいけないこの戦争の記憶を、一人でも多くの人に、語り継いでいきたいと思います。(兼次琉世・浦西中)
第1回平和集会(長崎県)
私たちは原爆落下中心地で第1回平和集会を開き、自分たちで作成したメッセージの朗読や千羽鶴を献呈しました。
被爆当時の状況は、上空500mで爆発し、その瞬間の爆発点の温度は数百万度に達し、火球は爆発1秒後には最大になり、半径約240mまで膨張し、爆発後の爆心地の地表の温度は約3,000~4,000度に達したと推定されているそうです。長崎市内には当時約24万人の人が暮らしていましたが、原爆での死者は、約7万4千人、負傷者は約7万5千人だということを知ることができました。
私は、今回の平和研修でたくさんの戦跡を巡り、大きな被害を受けた場所が多いことに驚きました。
今の私たちにできることは、二度戦争をしない平和な世の中をつくっていくこと、戦争当時の状況を伝えていくことが大切だと思いました。(高良日奈子・仲西中)。
長崎平和祈念式典
私たちは、長崎に原爆が落とされた8月9日に毎年行われる「長崎平和祈念式典」に参列しました。その日の朝は大雨で、少し不安もありましたが、被爆者や長崎市民、そして私たちのような平和学習をしに全国から訪れた人たちも多く参加しており、会場を埋め尽くしていました。安倍晋三内閣総理大臣のほか、国会議員、各国の来賓の方も参列しており、そのためか、式典会場に入るためのチェックは厳しかったです。また、会場内はスタッフが参列者をとても気遣っていました。
開会前は、被爆者の方々でつくられている合唱団が4曲歌っていましたが、どれも平和を願う歌でした。原爆が落とされた11時2分になると戦没者の冥福と平和を祈り、全員で黙とうを捧げました。その後、長崎市長、安部総理がそれぞれ平和への考えを述べました。長崎市長は、「世界各国のリーダーの皆さん、被爆地を訪れてください。原爆が人間の尊厳をどれほど残酷に踏みにじったのか、あなたの目で見て、耳で聴いて、心で感じて下さい。もし自分の家族がそこにいたらと考えてみてください。」と核の脅威について訴え、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることを宣言されました。
この式典を通して、沖縄戦以外の原爆についても学び、戦争は絶対に起こしてはならないことを改めて思いました。このようなことが実際に自分の目の前で起こってしまうと考えるだけでぞっとします。そして今回学んだ事を、戦争を起こさないために、身近な周りの人に伝えていきたいと思いました。(片桐涼音、松田佳子・神森中)
私は今回の平和研修でたくさんの戦跡を巡ってみて、大きな被害を受けた場所が多いことを知りました。
浦上天主堂遺壁は、爆心地から約500mの小高い丘にあり、キリスト教の信徒の人たちの献金と労働奉仕により完成したそうです。しかしそのわずか20年後に原爆によって破壊されてしまいました。今では、南側の1部が移設され残されています。
近くの川には世界の子ども達が平和を願って書いた絵がありました。
今の私たちにできることは、二度戦争をしない平和な世の中をつくっていくこと、戦争当時の状況を伝えていくことが大切だとおもいました。(高良日奈子・仲西中)。
青少年ピースフォーラム報告
青少年ピースフォーラムでは被爆を体験された方の講話を聞きましたが、とても恐ろしく衝撃的なものばかりでした。フィールドワークでは、「未来を生きる子ら」という平和を愛し戦争のない世界を願うすべての人々に捧げる像や、亡きみ霊の安らかと惨禍をくり返さぬことを誓った「原爆殉難教え子と教師の像」を見ました。これらの像を見て感じたことは、平和の大切さです。私たちは、1日1日を大切に生きていかないといけないと思いました。
2日間のフォーラムを通して、私たちは核爆弾の恐ろしさを知り、今を知ることができました。また、私たちは意見交換の中から違う見方の考え方や、各地域の文化などについて学ぶことができました。
日本の長崎と広島に落ちた核爆弾。核爆弾の恐ろしさを知っているからこそ世界へ伝えていくべきだと思いました。
これらを学んだことで、私はよりいっそう平和をつなぎ合うという強い意志がめばえました。とても良い経験でした。これを機に、私はせいいっぱい平和について伝えていきたいと思います。(儀間大輝・仲西中)。