記事番号: 1-10650
公開日 2021年03月30日
40周年ロゴマーク
~ 40年を振り返る ~
浦添市の職員として友好都市締結を担当した仲里邦彦さん(当時の役職:企画部秘書課広報広聴係長)にインタビューしました。
仲里邦彦さん
− 友好都市提携のきっかけについて
まず、昭和37年愛知県出身の沖縄戦没者の御霊をまつる「愛国知祖の塔」が浦添城跡内に建立されました。
そのことをきっかけに当時の愛知県知事(桑原幹根氏)の紹介により蒲郡市との行政事務の研修が始まります。蒲郡市の職員の皆さんからは、親切丁寧に本土の行政事務を教えていただきました。蒲郡に派遣が決まった職員は、復帰前だったこともあり、本土への出張はとても緊張し、背広や靴を新調して研修に向かったと聞いています。
− 友好都市担当となった経緯について
蒲郡市とは、昭和56年以前から様々な交流を行っていました。交流が深まるなかで、正式に友好都市提携の話が持ち上がり両市で担当部署を決めるのですが、浦添市にはその時担当部署がありません。そこで秘書課で業務を一手に担い、準備を進めていくことになりました。
建立当時の「愛国知祖の塔」の説明をする仲里さん
− それまで誰も携わったことのない業務で、さぞ苦労も多かったのでは?
それが、苦労とかいうものは全くありません。蒲郡市とは、それまでも繋がりが深かったですし、言ってみれば内縁の夫婦のよう(笑)。それが、晴れて正式に結ばれるということで、皆心は一つでした。もう「いけいけどんどん!」ですよ。その日が来るのがとても待ち遠しかったです。
− 昭和56年11月4日、蒲郡市民会館で行われた調印式を迎えたときの様子について
名古屋空港(当時)に到着したときは、ロビーで「めんそ~れ」の横断幕を掲げた蒲郡市民や関係者の皆さんが大勢で歓迎してくれました。調印式は、厳かに執り行われ、「友好都市提携協定書」に両市長が署名し固い握手を交わし、正式に契りを結んだ時は、万感の思いです。出席した全員がそのような気持ちであったと思います。調印式後の記念行事では、蒲郡市立三谷小学校合唱部による合唱のほか、本市からも勢理客の獅子舞や琉球舞踊を披露し、式典を大いに盛り上げました。
− その後の交流で思い出に残るエピソードはありますか?
今でも思い出すと涙が出る出来事があります。平成5年の全国高校野球選手権大会に浦添商業高校が浦添から初めて出場しました。私も当時甲子園球場で応援しましたが、「ガンバレ浦添商業高校」というお揃いのユニフォームを着た蒲郡市からの応援団が甲子園にみえた時、蒲郡市民の皆さんの友情に感動して涙が止まりませんでした。試合は、第1試合だったため、深夜2時に蒲郡市民体育館を出発し、バス2台を貸し切り5時間かけて甲子園に駆けつけたこと。応援団の皆さんが甲子園で冷めた朝食を摂っている光景を見て、さらに涙したことを覚えています。結果は、初戦敗退でしたが、蒲郡からの応援には感謝の気持ちでいっぱいです。
− 仲里さんご自身は、スポーツなどを通して、今でも交流が続いていると伺っています。
これまで蒲郡には、10回以上訪れました。県外に行く機会があれば、蒲郡に寄ってご挨拶に伺ったりもしています。数年前に、蒲郡市のバレーボール大会に選手として出場する機会がありましたが、そこで優勝してしまったのです(笑)。優勝旗を沖縄まで持ち帰り、翌年の大会で返還に行きました。今となっては、とてもいい思い出です。
− 今年40周年を迎え、今後の両市の交流に期待すること
現在の、両市の繁栄があるのは、これまで親善のきずなを深めてきた多くの方々のおかげです。その思いを繋いでいくために交流を絶やさず、継続していきたい。そのためには、時代に合わせた方法を工夫しながら、ますます友情が深まることを願います。蒲郡の若い世代にもどんどん浦添に来て欲しい。「愛国知祖の塔」が建てられた場所に来て、浦添での過去の歴史を学び、平和の証でもある、友好交流で両市のきずなをさらに深めていけたらと思います。
友好都市「蒲郡市(がまごおり)市」について
蒲郡市の高台から望む三河湾
蒲郡市は愛知県にあり、本州のほぼ中心に位置しています。2つの大きな渥美半島と知多半島に囲われた海辺の観光地で、三河湾国定公園に指定されています。約47kmの海岸線沿いに4つの温泉地を持ち、市内には日本の文化を感じさせる神社や仏閣の多い、美しい土地です。海から山にかけ変化に富んだ景勝は、万葉の歌人や近代の作家にも愛され、数多くの文人が好んで訪れました。(蒲郡市ホームページより抜粋)